母よ嘆くなかれ(The child who never grew)

 さて,もし私が避けることの出来ない真実を,もし容易に受け入れることができたなどと申し上げたら,それはやはり私が言いのがれをしていることになるでしょう。あの峻(けわ)しい道を歩いていられる方々のために,私は自分の心の中の闘争が長い間続いたことを正直に申し上げたいと思います。私の常識,あるいは義務は果たさねばならないという信念,それらのすべては,私に常に災害(わざわい)が私自身の生活や,私の親戚あるいは友達たちの生活を傷つけてはならないことをいい聞かせてくれました。しかし,心が乱れきってしまっている時には,いつでも常識や義務の教える通り動けるものでは決してありません。心から常識や義務の信念の命ずる通り動くことが出来ないと悟(さと)った私が,妥協策として覚えたことは,話をしたり,笑ったり,あるいは世間に起ることに興味をもっているように見せかけたり,出来るかぎり表面では私に変わったところがないように振舞うことでありました。しかし,この裏で私の魂は反抗の焔に燃え,そして独りになった瞬間には涙が溢れることがたびたびでありました。

 もちろん,私はこのような表面だけの振舞いを続けていた間じゅう,他の人々と誠の交わりを経験することは出来ませんでした。きっと他の人たちは私の表面的な明るさや,浅薄さを感じ,そしてその人々にはわからない私の心の底に,あるきびしい冷たいものに反撥を感じたことでしょう。しかし,私はやはり上べを飾らなくてはなりませんでした。というのは,それもまた,私自身を守る一つの手段であったからでした。その頃の私にとって,自分の心の奥底にあるものを,他の人とともに分かち合うことはとても出来ないことでありました。

 取り除くことの出来ない悲しみとともに生活するには,一体どうしたらよいかを悟る過程の第一段階は,みじめな,しかも支離滅裂なものに過ぎません。前にも申し上げた通り,一切のものに喜びはなくなってしまいます。すべての人と人との関係は意味のないものとなり,あらゆるものが意味を失ってしまうのです。風景とか,花とか,音楽とか,私が前には喜びを見出したものも,すべて空虚なものになってしまいます。実際,私は一切音楽を聞いていられなくなりました。そしてその後,再び音楽に耳を傾けられるようになるまでに,私は何年もかかったのでした。この悟りの過程が相当の程度まで進み,私の魂がほとんど妥協の出来る境地に近づいた頃でさえも,私は音楽を聞いていることが出来ませんでした。

 そのころ,私はやはり自分のすべき仕事はいたしました。家の中が清潔に整頓されているように監督し,花瓶には花を生け,庭には花壇をつくって薔薇を咲かせ,食事が正しく用意されるように心も使いました。またお客を招くこともありましたし,私は自分が住む社会で果たさなくてはならない義務は怠りませんでした。

 人々はみな親切でした。しかし,私は誰からも助けを求めることができませんでした。おそらくそれは,私の罪であったのに違いありません。というのは私が余りに表面では滑らかで,しかも自然であったため,誰も私の心の内を見ることは出来なかったに違いありませんから。しかし,これもその理由であったと同様に,人々が遠慮して決して表面にあるものの奥に入って来ようとしなかったことも,またその原因でありました。避けることの出来ない悲しみを知っていられる方々には,私の申し上げることがわかって頂けるに違いありません。

 私が,世の中の人々を,避けることの出来ない悲しみを知っている人たちと,全く知らない人たちとの二種類に分けることを知ったのは,この頃のことでした。というのは悲しみには和らげることの出来る悲しみと,和らげることの出来ない悲しみという根本的に異(ちが)った二つの種類があるからです。

 和らげることの出来る悲しみというのは,生活によって助けられ,癒すことの出来る悲しみのことですが,和らげることの出来ない悲しみは,生活をも変化させ,悲しみ自身が生活になってしまうような悲しみです。ブラウニングがかって書いたように,それは流れに投じられた石のようなものです。水が自分の方からわが身をわって,やがて一つの流れになるよりほかに道はありません。水は石を動かすことができないのですから。

 とうとう私は,顔を見たり声を聞いたりするだけで,その人が,終ることのない悲しみとともに生きるということは,どういうことを意味しているのかを知っているかいないかがわかるようにさえなりました。そして,そのような人たちの数がどんなに多いものであるかを知り,またその人たちの悲しみも,私の場合と同じような原因から北ものであることを知って,私は驚くと同時に悲しい気持ちになったのでした。それは私にとって,決して慰めとはなりませんでした。というのは,他の人々もまた私と同じ重荷を背負っているということを知って,私は喜ぶということは出来ませんでしたから。そして私は他の人々がどうして悲しみとともに生きるかを悟ることが出来たのなら,私にも出来るに違いないと思ったのでした。

出版社法政大学出版局
発行年1950年

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